天祖神社のこと
鎮座地
板橋区南常盤台2−4−3
東武東上線ときわ台駅南口より徒歩1分
ご祭神
天照大御神(あまてらすおおみかみ)
豊受姫命(とようけひめのみこと)
大山咋命(おおやまくいのみこと)
ご神木
ヒイラギ
神田流神明囃子
毎週土曜日午後7時から練習しています。初心者でも気軽に参加できますのでご興味のある方はおいでください。年齢、経験等は問いません。
稽古場所>ときわ台天祖神社 神楽殿
連絡先>0339566168 神田流神明囃子保存会 小林まで
お末社
【石祠】榛名神社
火産霊神
(ほむすびのかみ)
埴山比賣神
(はにやまひめのかみ)
ご由緒
上板橋村は、板橋地域のなかでも古い村のひとつでした。江戸時代以前の古道である川越街道が村内を通っていることや、付近一帯が豊島氏によって開拓されたことをなども考えると、鎌倉から室町時代にかけて集落が形成され、村人達によって当社が創建されたかのではないかと推測されます。伊勢の神宮、すなわち内宮の「天照大神」と共に、外宮の「豊受大神」が同殿にまつられており、末社には神宮の別宮の一つである「月読神」をまつる「月読社」があり、伊勢の神々への信仰が色濃くみられます。
当社の創建に関する二つの伝承があります。
一つは、後深草天皇(鎌倉時代)の頃に、伊勢神宮でお祭りされている天照大御神を勧請したというもの、もう一つは上板橋村字原(神社周辺の地)に天照大御神のお姿が現われたという「影向跡(ようごうあと)」があって、そこに「伊勢神社」を勧請したというものです。(『北豊島郡誌』)この「伊勢神社」は現在境内に「末社」としておまつりしていますが、この影向跡がどこにあったのかは詳らかではありません。
かつては村内のどこからも、うっそうとした神社の杜が見えたといいます。この神社を地形からみると、石神井川に南面する緩やかな丘(標高32米)に位置しています。古代からこの川の近くに人々が住んでいたことを考えると、今のような神社の形態が整えられる以前からここは聖地と考えられていたかもしれません。
さて江戸時代、当社の境内はどのようであったのでしょうか。大田南畝の地誌『武江披砂』の続きにはこうあります。
「古杉老松を交えて大なる柊(ひいらぎ)もあり、宮居のさまもわら葺きにて黒木の鳥居神さびたり」
昭和11年、東武鉄道によって分譲された「ときわ台」の地名は、常磐なる松―当社のこの「老松」にちなんだといわれています。柊は当社の神木です。このような木々に囲まれた神社のたたずまいは、江戸時代にはすでに「神さび」を感じるようなものであったことがわかります。神社の入り口は現在よりももっと石神井川よりで、約200m近くの参道があり、松・杉を主体とした樹木が繁茂し、昼でも暗いと言われる程でした。
時代の移り変わりとともに、現在では境内地も約半分になりましたが、駅の付近に位置しながら、いまなお境内には、かつての杜の面影が色濃く残っています。
天祖神社は、旧上板橋村の産土神として古くからおまつりされている神社です。
「上板橋の石橋を越へ右へ曲り坂を上りゆく、岐路多くして判りがたし、左の方に一丁あまり松杉のたてたる所あり、この林を目当てに行けば神明宮あり」(大田南畝『武江披砂』外編)
寛政9年(1797)丁巳4月17日、江戸時代の文人・大田南畝(おおたなんぽ)は、当社を訪れた時のことをこのように記しています。「石橋」とは石神井川にかかる現在の「下頭橋」(げとうばし)を指します。また、明治5年まで当社は「神明宮」という社号で、「神明さま」と称されていました。